S40年卒:朝川慎一 2023年-6月 記
初めに・・・
ワインの会の景平悳雄世話人から、新しくなった杉並三田会HP (My Site)内、分科会紹介の項:ワインの会
ホームページに、原稿執筆のお話を頂き、私の若かりし頃の南ア(ケープタウン)駐在経験を綴る中で、
ワインの事にも触れながら、下記・南アについて書かせて頂きます。
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私は、昭和40年に某総合商社に入社し(本社:水産部 配属)、
その5年後に、南アフリカ共和国・ケープタウンに事務所開設の特命の下、同地に赴任。
(当社の駐在員は私一人。他社も含めたケープタウン駐在員は、全部で9名に後は、領事が1名)。
当時の対ドル 為替レートは、未だ360円時代の最後で、国外への持ち出し制限外貨は、500ドル。
羽田からの出国に際しては、水産部全員の見送りを受け、赤絨毯を踏んでの物々しく(?)
且つ、勇ましく(?)ちょっと肩に力が入った、覚悟の出国気分であった。
ケープ赴任の前に、ヨーロッパ各地の支店(ロンドン・ハンブルグ・ミラノ・ラスパルマス)に寄り
研修を続けながらの、最終地・ケープへの赴任であった。
商社は、我が社を含め4社。それと水産会社が2社・魚群探知機メーカー1社という当時のケープタウンの日本人構成。
他には、ケープ沖で操業する日本の(1,500トンクラス)大型トロール船が、約10隻。
メルルーサ(レンコ鯛)を漁獲し、約3か月毎にケープに入港、漁獲漁の陸揚げ作業、
日本・ヨーロッパ向けの運搬船の手配、積み荷作業の監督が主業務であった。
それまでの東京本社でのデスクワークとは全く違う 現場での仕事が中心であり、
27歳の新米商社マンの私にとっては、毎日が貴重な経験・勉強の連続で、
これらが、その後の私の人生の大きな転機になる基礎を作ってくれた事は、間違いない。
(ケープ港に入ってきた、日本向け運搬船の積み込み作業の監督)
ケープタウン遠望(独特な、美しい海岸線)
当時、私は、新婚時代であったが、人種差別国家という難しい状況の下、会社からは
単身赴任という条件が付いた。
当時の国際電話は、申し込んでから相手国に通じる迄、数時間もかかる時代で、日本の家族への電話は年に
2回程度で、日々・互いに書き綴った手紙・文通が、唯一のコミューニケーション手段。
手紙を書きその返事が来る迄、往復2週間も!
今の様に便利なパソコンなんてものは、姿・形も無く、ファックスさえも無い時代。日本本社との毎日の連絡は、
全てテープを作った上での電報・テレックス。
アフリカ大陸 最南端・喜望峰への入口、ケープタウンは、一年中 日本の5月位の快適な気候。
街中、紫色の花が咲き乱れるジャカランダの並木が続き、目の前にはインド洋が広がり、町の後方には正に雄大な
テーブルマウンテインが聳え、まるでおとぎの国に居る様な錯覚さえ起こすほどの美しい景色であり、
こんな所に家族を呼び寄せたい・・と、何度思ったことか。
(執務中の若き駐在員)
しかし,当時の南アは、アパルトヘイト政策の下、厳しい人種差別政策を取り続ける白人国家。
日本人は【Honorable White・名誉白人】にランクされ白人扱いだが、こと・・セックスに関しては、
非白人扱い故、白人女性とのお付き合いは法律で禁止・密告制度の下、それはそれは厳しいものがあった。
(私は、日本人漁船員の入港中の行動を見守り、監視する立場)
事務所の白人女性のセクレタリーを、車の助手席に乗せて港内を走る度に白人警察官のパトロールに呼び止め
られて、彼女との雇用証明書を提示する必要があったほどに、厳しく且つ難しい問題のある国であった。
そして 社有車は、会社が手配をしてくれたトヨタのマークⅡに乗り、後ろの窓には日の丸の小さな日本国旗を
貼るなど、まるで領事館の車の如きであった。南アに赴任するに当たり、同国のアパルトヘイト政策には
反対をしない旨の記載のある用紙にサインをし、ビザの発給を受けた。
日本人は名誉白人(白人扱い)とは云え、そういう法律そのものを知る一般人は少なく、
彼らから見れば、日本人も中国人も同じに見え、我々を非白人と位置づけ、レストランに入るのにもパスポートを提示し、日本人は白人待遇・と説明しない限りは、入店にトラブル始末で、この問題には最後まで悩まされ続けた。
しかし、駐在期間が長くなり、私が日本人と分かってくれた店には、入りやすくはなったが。
綺麗なビーチにしても、白人と非白人のエリアが区切られており、当時は本当に嫌な思い出が多く・・。
美しい海岸線に面した、白人居住区(後ろの山は、Lion Head)
(ケープタウン湾を望む、Lion Head/Table Mountainの山並み)
あと・・、年に一度、南極観測船の【宗谷・ふじ】が、越冬隊員を乗せて日本に帰国をする前に、
必ずケープタウンに寄港し、現地の大勢のVIPを招待・艦上パーテイーを催し、沢山の模擬店を出し、
現地の人達に日本食を振る舞うのが、大きな行事の一つであり、領事と共に、それをアテンドするのも、
商社マンの仕事であった。
南アの歴史は、19世紀~20世紀初頭に、イギリスとオランダ系アフリカーナが、南アフリカの植民地化を争い、
第一次、第二次ボーア戦争が起き、イギリスが勝利し、南アの美しい海岸線に位置するケープタウン~ダーバン
~ポートエリザベスを取り、敗れたオランダ系が北のヨハネスブルグへと、移った。
もう少し、ケープタウンにつき記述しておきたい。
当時は、元黒人大統領のネルソン・マンデラさんは、ケープ湾内にある監獄の島(独房)に収監されていて、
完全な白人体制。寒流の海故、仮に島を脱獄し泳いで逃げても、泳ぎきれない。
(寒流の海の冷たさには、驚いた経験多々)
一方、白人である限りは一生身分が保証されている為、白人の向学心は非常に低いものであった。
黒人は夜は12時迄に、町から遠く離れた黒人居住区に戻る事を義務づけられ、その時間を過ぎてケープの街中に
いれば、問答無用で発砲されていた。
一方で・・・、
世界で最初に心臓移植に成功したバーナード博士が在籍する病院として、
ケープタウン病院が世界的に注目されていた。
日本の阪大から、私と同年代の若い有望な医師が1名、バーナード博士の助手として勉強に来ていた。
当時のプロゴルファーで、後に米国に移住をしたゲーリープレーヤー & サリーリトル等は、
まだケープにいて、時折ゴルフ場で顔を合わせていた。
あと、南アは鉱物資源が豊富で、特にダイヤモンドの産出量は世界一。
従って、国としての外貨保有額は高く、人種問題は横に置いて、世界の国々は、南アとのダイヤモンド取引が
ある限り、同国との貿易を積極的に行っていた。
ケープタウンから喜望峰への道路は、途中 停止禁止表示エリアが至る所にあり、一般車が車を停車させ、
道路脇の岩盤でのダイヤモンド採掘を禁止していた。
さて・・、私が最初にワインに興味を持ったのは、この20代半ばに、最高の各種葡萄が採
れる南ア・ケープタウンに赴任した時に始まる。
未だ日本では、ワインと云えば・・・、一般人は、赤玉ポートワインしか知らなかった時に、
ケープで初めて飲んだ、あの ピノタージュ & シュナンブランの味に感激したのが、事の始まり。
そして、1980年に赴任したNY。NY郊外の自宅・スカースデールの町に、米国・東岸随一の規模を誇る
ワインの小売店・Zachy’s (ザッキー)があり、そこでは殆どがダース買い。
そこで最初に買って飲んだのは、安い 家飲みワイン・伊シチリアのコルボと、カリフォルニア・ソノマの
シャルドネ。後は、NY州北部に位置する、Finger Lakes周辺の小さなワイナリーで作る、
貴腐ワインの味は忘れられない。
さて・・、ここからは、肝心な南ア・ワインについて記述したい。
葡萄畑が広がる、ステレンボッシュ地区。(領事と共に)
ケープタウン郊外・ステレンボッシュ地区(東に約100キロ)は、葡萄畑が広がり、
現地でのワイン・ボトリング化よりも、(現地で消費をされる以外は)当時は採れた葡萄は殆ど全てを
フランスに輸出をし、フランスワインにとっての貴重な原料の供給地であった。
南ア・ワインば、総じてボリューム感があり、力強く、タンニンはしっかりで柔らか。
旨味がたっぷり広がる新世界!
上述・ステレンボッシュ地区のテロワール(気候・土壌・地形等)は、正に葡萄栽培には、最適なエリア。
南アと云えば・・、
白であれば、真っ先にどなたも、あのふくよかな味・シュナンブラン挙げるでしょうが、
他にも、シャルドネ・リースリング・ソービニオンブランは、アルザス・ボルドー・ロワール・ブルゴーニュにも、全くひけをとらない。
そして、赤の代表は、ピノタージュですが、他にも、メルロー・カベルネソーヴィニョン等々、
その品種は多岐に亘り、凝縮感たっぷりの旨味豊かな味わいは、正に心地よく溶け込みます。
とは云え、
私のケープ駐在時代に、本社・食品部が初めて南アのシュナンブラン&ピノタージュを現地の私から輸入し、
日本橋の高島屋に卸したが、当時の日本は、情けない事に、南アの場所さえも定かで無い人たちが多く、且つ
ワイン = フランス&イタリアしか知らなく、
そんな時に、南ア・ワインの仕入れ・陳列は出来ないと、何度も断られたが、東京に出張し、私の同期の担当者と
何度も足を運んだ結果、やっと売り込みに成功。
しかし、それは、地下の食品売り場の片隅、お客様の目線が殆ど届かない、
一番下の棚に陳列・という苦いセールス経験があります。
それが今では・・、文字通りの様変わり。
南アのワインを知らずしてワインを語るな!とまで言われるほどにその地位が向上し、
当時を知る私としては、正に 晴天のへきれき、本当に感慨深いものがあります。
長かった南アの、苦しい、辛い、悲しい歴史を、現地の人たちが何年もかけて乗り越えてくれたからこそ、今の南ア・ワインが世に出た!と言っても過言では無い。
この長い歴史をしっかりと認識した上で、
当会・南ア ワインの大ファンである松本鉄男さん(ご子息がヨハネスブルグ駐在、且つ
ご自身も現地に旅行をされ)と共に、【南ア・ワイン 万歳!】を声高らかに叫びたい。
・・・・最後に・・・・
私の大学卒業後の人生は、27歳の時の単身赴任をした、南アフリカ共和国・ケープタウンから始まったと
云っても過言ではない。そんな私の人生の貴重な経験につき、杉並三田会HPへの投稿の機会を与えて下さった
景平悳雄世話人に、心から感謝の気持ちを表したい。尚、文中の写真は、50年以上も前の古いアルバムからの
もので、かなり色あせていた物を、景平世話人の特殊技術で、色の修正を加えて頂いた。
― 完 ―